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第7話 きしむ未来

作者: 酔夫人
last update 公開日: 2026-08-03 06:00:52

「話がある」

その一言だけで、実里の胸は強く締めつけられた。

「うん」

小さく返事をする。

広海はリビングへ入り、ソファにも座らず立ったままだった。

以前なら「疲れた」と言って笑いながら隣へ座り、実里を抱き寄せていた。

それが当たり前だった。

だから、今は違うのだと分かってしまう。

広海は一定の距離を空けたまま、実里を見つめている。

この距離が「今は」なのか。

それとも「今はもう」なのか。

静かな広海の目を見て、「今はもう」なのだと実里は思った。

「広海……」

広海の目には何もなかった。

何の感情も見えない。

静かすぎて、怖かった。

立ち上がろうとした。

「座っていて」

広海が短く言う。

実里はそのまま、ソファに座り直した。

自然とお腹へ手が伸びる。

反射的に身を守ったのだと分かる仕草。

広海はこちらを見ている。

けれど、何も言わない。

広海の何かを実里が疑っていると分かっているのに。

怖いとさえ感じていることにも気づいているのに。

目の前にいるのは広海なのに、知らない人のようだった。

.

沈黙だけが流れる。

時計の秒針がやけに大きく聞こえた。

「広海?」

耐えきれず実里が口を開く。

広海は実里をじっと見たままだった。

息苦しい。

「ねえ……」

掠れた声が出た。

「話って、何?」

広海は一度だけ目を閉じた。

何かを決意するような仕草だった。

そして、ゆっくりと口を開く。

「実里」

低い声だった。

感情を押し殺したような声。

心臓は一度弾んだあと、ドクドクと大きな音を立てる。

「子どもは諦めてくれ」

(……え?)

言葉の意味が分からなかった。

(今……ちょっと……)

「……え?」

聞き間違えたのだと思った。

「ごめん……え? 今、何て言ったの?」

戸惑う自分とは対照的に、広海は落ち着いていた。

乱れない呼吸。

変わらない表情。

実里も引きずられるように落ち着かされる。

それを待っていたように、広海が口を開く。

「子どもは諦めてくれ」

同じ言葉を繰り返す。

実里は笑った。

笑ってしまった。

「やだな……」

乾いた笑い声が漏れる。

「そんな冗談……笑えないよ……」

声が粘つく。

言葉が喉で引っかかる。

「実里」

広海は首を横へ振った。

「冗談ではない」

その瞬間。

実里の笑顔が消えた。

「……どういうこと?」

声が震える。

「諦めろって……赤ちゃんだよ?」

そっとお腹へ触れる。

この前の健診で見たエコーの映像が頭に浮かぶ。

妊娠と言われたときは豆粒のようだった赤ちゃん。

その赤ちゃんは大きくなり。

——ここが心臓ですね。

(生きて……)

元気に動いていた。

名前だって考えていた。

広海だって。

(生まれてくる日を楽しみにしていたじゃない……)

なのに。

.

「中絶してくれ」

.

曖昧さを切除したその一言で。

——世界が音を失った。

実里は何も言えなかった。

耳鳴りだけが響く。

「……なんで」

やっと出た声は、それだけだった。

でも。

「どうして?」

一度開いた口から次の言葉が続いて飛び出す。

広海は黙っている。

「どうしてそんなこと言うの?」

答えはない。

「この子だよ?」

震える手でお腹を抱きしめる。

「赤ちゃん……私たちの子どもなんだよ?」

何か理由があるのだと思いたかった。

会社が倒産するのか。

広海に重い病気が見つかったのか。

何でもいい。

納得できる理由があるなら、一緒に考える。

そう思った。

「お願い」

実里も分かっている。

そんな「解決できるかもしれない」段階はとっくに過ぎている。

だから広海はいま、ここにいる。

決めたことを伝えるために。

涙がこぼれる。

「ちゃんと話して」

広海は目を伏せた。

苦しそうにも見えた。

けれど。

「……」

何も言わない。

「広海」

実里は立ち上がる。

「私、何かした?」

その問いにも答えない。

答えてくれない。

「怒らせたなら謝る」

気づけば、身体が動いていた。

広海に一歩近づく。

「直すから……」

もう一歩。

「だから……」

広海は静かに後ろへ下がった。

その仕草だけで、実里の心は音を立てて崩れた。

「お願いだから……」

涙が止まらない。

「理由だけでも教えて」

広海は長い沈黙のあと、小さく息を吐いた。

けれど。

「……」

何も答えなかった。

広いリビングには、実里のすすり泣く声だけが静かに響いていた。

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