登入「話がある」
その一言だけで、実里の胸は強く締めつけられた。
「うん」
小さく返事をする。
広海はリビングへ入り、ソファにも座らず立ったままだった。
以前なら「疲れた」と言って笑いながら隣へ座り、実里を抱き寄せていた。
それが当たり前だった。
だから、今は違うのだと分かってしまう。
広海は一定の距離を空けたまま、実里を見つめている。
この距離が「今は」なのか。
それとも「今はもう」なのか。
静かな広海の目を見て、「今はもう」なのだと実里は思った。
「広海……」
広海の目には何もなかった。
何の感情も見えない。
静かすぎて、怖かった。
立ち上がろうとした。
「座っていて」
広海が短く言う。
実里はそのまま、ソファに座り直した。
自然とお腹へ手が伸びる。
反射的に身を守ったのだと分かる仕草。
広海はこちらを見ている。
けれど、何も言わない。
広海の何かを実里が疑っていると分かっているのに。
怖いとさえ感じていることにも気づいているのに。
目の前にいるのは広海なのに、知らない人のようだった。
.
沈黙だけが流れる。
時計の秒針がやけに大きく聞こえた。
「広海?」
耐えきれず実里が口を開く。
広海は実里をじっと見たままだった。
息苦しい。
「ねえ……」
掠れた声が出た。
「話って、何?」
広海は一度だけ目を閉じた。
何かを決意するような仕草だった。
そして、ゆっくりと口を開く。
「実里」
低い声だった。
感情を押し殺したような声。
心臓は一度弾んだあと、ドクドクと大きな音を立てる。
「子どもは諦めてくれ」
(……え?)
言葉の意味が分からなかった。
(今……ちょっと……)
「……え?」
聞き間違えたのだと思った。
「ごめん……え? 今、何て言ったの?」
戸惑う自分とは対照的に、広海は落ち着いていた。
乱れない呼吸。
変わらない表情。
実里も引きずられるように落ち着かされる。
それを待っていたように、広海が口を開く。
「子どもは諦めてくれ」
同じ言葉を繰り返す。
実里は笑った。
笑ってしまった。
「やだな……」
乾いた笑い声が漏れる。
「そんな冗談……笑えないよ……」
声が粘つく。
言葉が喉で引っかかる。
「実里」
広海は首を横へ振った。
「冗談ではない」
その瞬間。
実里の笑顔が消えた。
「……どういうこと?」
声が震える。
「諦めろって……赤ちゃんだよ?」
そっとお腹へ触れる。
この前の健診で見たエコーの映像が頭に浮かぶ。
妊娠と言われたときは豆粒のようだった赤ちゃん。
その赤ちゃんは大きくなり。
——ここが心臓ですね。
(生きて……)
元気に動いていた。
名前だって考えていた。
広海だって。
(生まれてくる日を楽しみにしていたじゃない……)
なのに。
.
「中絶してくれ」
.
曖昧さを切除したその一言で。
——世界が音を失った。
実里は何も言えなかった。
耳鳴りだけが響く。
「……なんで」
やっと出た声は、それだけだった。
でも。
「どうして?」
一度開いた口から次の言葉が続いて飛び出す。
広海は黙っている。
「どうしてそんなこと言うの?」
答えはない。
「この子だよ?」
震える手でお腹を抱きしめる。
「赤ちゃん……私たちの子どもなんだよ?」
何か理由があるのだと思いたかった。
会社が倒産するのか。
広海に重い病気が見つかったのか。
何でもいい。
納得できる理由があるなら、一緒に考える。
そう思った。
「お願い」
実里も分かっている。
そんな「解決できるかもしれない」段階はとっくに過ぎている。
だから広海はいま、ここにいる。
決めたことを伝えるために。
涙がこぼれる。
「ちゃんと話して」
広海は目を伏せた。
苦しそうにも見えた。
けれど。
「……」
何も言わない。
「広海」
実里は立ち上がる。
「私、何かした?」
その問いにも答えない。
答えてくれない。
「怒らせたなら謝る」
気づけば、身体が動いていた。
広海に一歩近づく。
「直すから……」
もう一歩。
「だから……」
広海は静かに後ろへ下がった。
その仕草だけで、実里の心は音を立てて崩れた。
「お願いだから……」
涙が止まらない。
「理由だけでも教えて」
広海は長い沈黙のあと、小さく息を吐いた。
けれど。
「……」
何も答えなかった。
広いリビングには、実里のすすり泣く声だけが静かに響いていた。
(広海との再会が衝撃的すぎたんだ)パーティーでのこと。エレベーターでのこと。どちらも、実里が想像してもいなかったこと。身構えずに受け止めた衝撃はかなり大きかった。◇◇◇広海とエレベーターで鉢合わせしたあと、実里はすぐに高橋誠へ連絡を入れた。『東條広海が、マンションに?』高橋誠はそう言って驚いたあと、しばらく黙り込んだ。『……それは、確かですか? 見間違いでは?』「見間違えるはずがありません」『何か、話をしたりは……』実里は、エレベーターの前で広海と遭遇した状況を説明した。広海は誰かと電話中だったこと。顔を合わせたのも一瞬で、すぐにその場を去ったこと。『東條広海は、美空ちゃんを……』「……分かりません」美空を隠すようにはした。でも、隠せていたかは分からない。とっさに美空を隠そうとしたあの動きが、広海の目を引いた可能性もある。裾が広がるドレスのような服を着ていたわけではない。美空を完全に隠せるわけがない。その場をすぐに去った。振り返らなかった。(だから……)もしかしたら、広海はこちらを見ていたかもしれない。そうしたら、美空が見えただろう。あのとき美空は振り返っただろうか。――すっごく、かっこいい人だったね!――背もたかーくて、お顔もかっこよかった!(……振り返ったかもしれない)自分なら?芸能人を見るような感覚なら、振り返った。美空を責める気はない。だって、美空は何も知らない。.『分かりました。確認してみましょう』「か、
美空が入院した。手術のためではなく、詳しい検査を受けるための入院だ。三日ほどかけて検査を行い、その結果を踏まえて今後の治療方針を決めるという説明を受けた。もっとも、今回の検査だけですべてが決まるとは限らない。結果によっては追加の検査が必要になるし、手術を受けることになれば、また入院することになるだろう。.「ママ、ちゃんとごはん食べてね」「……それはママの台詞じゃないかしら?」病室で美空にそう言われ、実里は思わず笑ってしまった。「だって、ママ、美空のことばっかり心配してるもん」「そうね」「だから、ママもちゃんとごはん食べて、ちゃんと寝るの」「分かりました」少しおどけた口調で実里が頷くと、美空は満足そうに笑った。ベッドの上には、台湾から連れてきたウサギのぬいぐるみ。少しくたびれたその姿が、きれいに整えられた病室の中では妙に目立っていた。「寂しくなったら、この子をぎゅってするからね」「……うん」本当は、実里のほうが寂しかった。生まれてからずっと一緒に暮らしてきた娘。離れて眠ることなど、ほとんどなかった。けれど、美空は頑張ろうとしている。だったら、母親である自分が不安そうな顔を見せるわけにはいかない。.「また明日、会いに来るからね」「うん! ママ、ばいばい!」元気に手を振る娘に笑顔を返し、実里は病室をあとにした。廊下に出て、扉が閉まった途端、胸の奥がきゅっと縮んだ。(……三日だけ)そう言い聞かせる。たった三日。しかも、面会できないわけではない。それなのに、病院を出る足取りはひどく重かった。◇◇◇マンションに戻ると、実里は玄関で立ち止まった。「……ただいま」返事はない。当たり前だ。美空は病院にいる。分かっているのに、いつもの癖で声をかけてしまった。リビングへ向かう。広い部屋。整えられた家具。大きな窓から差し込む午後の日差し。何も変わっていないはずなのに、昨日までとはまるで違う場所に感じられた。(……静か)美空がいない。美空がいれば、何かしら声が聞こえていた。「ママ、見て」「ママ、これなあに?」「ママ、だっこ」そんな声が、今はない。実里はソファに腰を下ろした。美空が今朝まで使っていたクッションが、隣に置かれている。思わず手を伸ばし、抱き寄せた。(……一人、か)台湾へ逃げ
「美空、ママに似てる?」「ええ」「ほんと?」「ええ」念を押す美空に、思わず笑みが浮かぶ。「えへへ。美空、ママに似てるの、うれしい!」そう言って笑う娘を見つめながら、実里は遠い昔のことを思い出していた。◇◇◇初めて広海を見たとき。実里はいまの美空のように、格好いい子だと思った。整った顔立ち。年齢のわりに落ち着いた雰囲気。同じくらいの年頃の男の子とは、どこか違って見えたことを、実里は今でも覚えている。けれど、一目で惚れたかといえば微妙なところだ。広海は見た目は良かったが、愛想が悪かった。話しかけても笑わない。何を考えているのか分からない。一緒に遊んでも、つまらなさそうにしている。だから実里は、自然と広海の妹である美渚とばかり遊ぶようになった。美渚はよく笑った。実里が何かを提案すると、目を輝かせて賛成してくれた。一緒に遊ぶなら、断然、美渚のほうが楽しかった。(……なのに)不思議なことに、気づけば広海を目で追っていた。美渚と遊んでいるときも。誰かと話しているときも。広海がどこにいるのか、つい探してしまった。そして、なぜか広海も近くにいた。実里たちの遊びに混ざるわけではない。何かを話しかけてくるわけでもない。ただ、少し離れたところに座っていたり、同じ部屋で本を読んでいたり。何が楽しいんだろうと、そう思ったこともある。一緒に遊びたいのなら、そう言えばいいのに、と。けれど、誘っても素っ気ない返事が返ってくる。だから、実里もそれ以上は誘わなくなった。それでも、広海の姿を探す癖だけは、なかなか消えなかった。.「昔から、実里のことが好きだった」結婚する前だっただろうか。広海がそんなことを言った。「昔って?」「初めて会ったとき」「え……嘘でしょう?」思わず笑ってしまった。だって、あの頃の広海は本当に愛想が悪かった。実里のことが好きだなんて、少しも思えなかったから。「一目惚れだったんだよ」「一目惚れした相手に、あんなに無愛想だったってこと?」そう聞くと、広海は少し困ったように笑った。「あの頃は、好きだって分かっていなかったから」「どういうこと?」「好きだって気づいたのは、あとからだったから」なぜか実里が気になった、と。気づけば目で追っていた、と。「だから、実里のそばにいたかったんだ
実里の心臓が跳ねた。(……広海!?)目の前に立っているのは、東條広海。どうして、こんなところに。そう考えた直後、実里は広海がスマートフォンを耳に当てていることに気づいた。誰かと電話をしている。(……よかった)こちらには気づいているようだが、電話中なら挨拶も必要ない。実里は咄嗟に美空の前へ体を滑り込ませた。娘の小さな姿を、自分の体で隠す。広海に美空を見られてはいけない。絶対に。「……すみません」小さく会釈をする。広海が反射的に空けた場所に滑り込む。実里は美空の手を握り、エレベーターから降りた。広海がこちらに視線を向けている気がするけれど、まっすぐ顔を前に向けて進む。「ママ?」「行きましょう」できるだけ自然に。急いでいると悟られないように。(……早く、ここから)走って逃げたい。一刻も早く広海の視界から消えたい。けれど、美空の手を引いて走るわけにはいかなかった。長時間の飛行機移動を終えたばかり。美空の心臓に、余計な負担をかけたくない。だから、ゆっくり。いつもと変わらない歩幅で。(……お願いだから)振り返らないで。声をかけないで。どうか、美空に気づかないで。自分の足がひどく遅く感じられた。一歩。また一歩。広海との距離が、少しずつ開いていく。それなのに、背中に視線が突き刺さっているような気がしてならない。「ママ、どうしたの?」「……なんでもないわ」声が震えないように気をつけた。美空は不思議そうに実里を見上げたが、それ以上は聞いてこなかった。そして、背後でエレベーターの扉が閉まる音がした。(……っ)実里は思わず息を吐いた。広海はエレベーターに乗ったのだろう。少なくとも、追いかけてくる様子はない。(……よかった)胸の奥に溜まっていた緊張が、少しだけ緩んだ。けれど、まだ安心はできない。ここは広海が現れた場所なのだから。どうして広海がこのマンションにいたのか。偶然なのか。それとも。(……考えるのは、あと)今は美空を連れて、ここから離れなければ。実里はエントランスの出口へ向かった。「美空、外に出るよ」「うん!」実里は足を止め、娘の前にしゃがんだ。「ちょっと待ってね。上着、ちゃんと着られているかを確認するね」そう言いながら、美空の上着の襟を整える。ファスナーを確認
羽田空港に到着した瞬間、実里は美空の顔を覗き込んだ。「美空、苦しくない? 胸は痛くない?」「だいじょうぶだよ、ママ」「本当に? 飛行機で疲れなかった?」「だいじょうぶ!」美空は元気よく答えたが、実里は安心できなかった。長時間の移動で心臓に負担がかかっていないか。少しでも顔色が悪くなっていないか。つい何度も確認してしまう。「ママ、さっきも聞いたよ?」美空が不思議そうに首を傾げた。「……そうね。ごめんね」「美空、元気だよ!」胸を張って笑う娘に、実里もようやく微笑んだ。「友梨ちゃんはまだ来ないの?」美空が周囲を見回す。友梨は二日ほど遅れて日本に来ることになった。台湾の家の片付けと仕事があるらしい。「二回夜が来たら来るよ」「そっかあ」「だから、友梨が来るまでに新しいお家を綺麗にして待っていましょう」「うん! 美空、おそうじする!」張り切る娘の手を握り、実里は到着ロビーを歩き出した。.高橋誠が用意してくれた住まいは、病院のすぐそばにあるマンションだった。いくつか提示された候補の中から、実里自身が選んだものだ。所有者は誠の知人で、投資目的で購入した部屋らしい。現在は誰も住んでいないため、気兼ねせず自由に使っていいと言われている。(……本当に、何から何まで)感謝してもしきれない。タクシー乗り場へ向かおうとした、そのときだった。(……?)不意に、背後から視線を感じた。「ママ?」実里は足を止め、振り返る。行き交う旅行客。大きなスーツケースを引く人々。迎えの相手を探す人。けれど、こちらを見ている者はいなかった。「ねえー、マーマー?」美空にまた呼ばれて、実里は隣にいる美空を見て笑った。「……なんでもないよ。突然止まってごめんね」日本に帰ってきたことで、神経質になっているのだろうか。実里はサングラスをしっかりとかけ直した。「行きましょう、美空」「うん!」二人はタクシーに乗り込み、新しい住まいへと向かった。◇◇◇マンションは、想像していた以上に広かった。三つの個室に、ゆったりとしたリビングダイニング。家具も家電も揃っている。「わあ! ひろーい!」美空は目を輝かせた。「ママ! おへや、みっつもある!」「そうね」「美空、このお部屋がいい!」美空が指さしたのは、子ども向けに整えられた部屋
日本へ向かう日が決まった。予定通り宗像医師の所属する病院で手術を受けることになり、美空を連れて日本に向かうための準備が始まった。「ママ、これも持っていっていい?」美空が差し出したのは、少しくたびれたウサギのぬいぐるみ。実里が色々な布の切れ端を組み合わせて作ったもの。美空にとっては、生まれたときから一緒にいる大切な友だちだ。「もちろんよ」「でも、荷物いっぱいになっちゃう?」「そっちをどうにかするわ。美空の大切なものは絶対に日本に連れていく」実里が笑うと、美空は嬉しそうにぬいぐるみを抱き締めた。その姿に、胸が温かくなる。(……絶対に守る)何があっても。美空の命より大切なものなどない。それだけは、決して揺らがない。.『深沢貿易の件ですが……』日本に向かう便を予約した直後の、高橋誠からの電話。彼の少し言い難そうな声に、その先のことが想像できた。『会社の株の7割を保有しているのは東條広海です』「……買い取ることは?」『難しそうですね。東條氏は、深沢貿易を手放すつもりはなさそうです』「……そうですか」『経営状態も悪くないですし、取引先は増えている。わざわざ売却する理由もないからだと思いますが』分かっていたことだった。深沢貿易は、父が残した会社だけれど、今は広海のもの。かつての実里が自分の意思で手放したように。広海が手放す気にならなければ……それは交渉とか、それ以前の問題だ。『株式を買い戻すにしても、相手が売る気にならなければ難しい』自分でも分かっていること。それを高橋誠に言われて、実里の気持ちは落ち込む。「……はい」